今週末はpixel art park4に行きます

ここ1年半くらいずっとうつうつとしていたのだけど、
やっとこちょっと元気が出たのでpixel art park4に行くことにした。

切符買いに行くため駅中に行くだけで色々と思いだし、うわーきっつ、
キオスクはなんでどこもかしこも同じ見た目なんだ!という
謎意識が湧きあがってきたりして、これじゃ日本中どこに逃げても
駅中でやられてしまうと考えたり。

出展を見た後は、文京区に足を延ばして白山神社にお参りする予定。

それは突然やってくる

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なんだか眠れなくて起きていたら、
自分はなんでこんなに我慢していい子してるんだろうと思った。

いたたまれない気持ちになり、私は牛丼を買いに行った。
遅い時間、田舎の牛丼屋、楽しそうに喋る若者。
それらをくぐり抜け、親切な店員から牛丼を買い、食べる瞬間の写真。

職場、どうでも良いことに神経を使い、
上司が愚痴るのを聞かぬふりして
馬鹿にされていることも知らぬふりをしていい子にしているが、
それで得たものはなんだったのか?

偉い人がいないせいで仕事が進まないという上司、
あなたは見通しが甘すぎる。

仕事が多いと嘆くおばちゃん。
もっとうまいやり方を自分で考えてくれ。

上司の「めんどくせえなあ」という言葉や
「XXくんならいつでもどれだけでも借りてっていいよ」という
そんな趣旨の言葉を聞きながら色々な思いを抱き、
おばちゃんの息子の野球の結果、そんなどうでもいい、
蚊の生き死によりどうでもいいことを笑顔で聴いていたけど、
あなた達二人が例え明日死んでも、私はなんとも思わない。
ああ、死んだ。
信号機が赤から青に変わる程度の驚きしか生まない。

そんなことを思いながら、私は今だけ悪い子になって夜の牛丼を食べている。
思っていたことを1割も言葉に出来ない自分を呪いながら。

書きながら泣いた

生きていると、突然文章を書きたくなる夜があって、それが今だった。

Tumblrをぐるぐると巡っていると、VHSのB級映画のパケ画像が流れてきた。
普段は特別気にするわけでもないけれど、なんとなくパケの文章を読んでみた。
読んでいるうちに、昔母親が買ってきてくれた、ピンクパンサーの映画を思い出した。

母親が好きだったピンクパンサー、何故かそれを実写化し、映画化したものがあり、
母親は楽しいアニメーション(私は昔トムとジェリーが好きだったので)だと思って
買ってきたようだった。
内容は全く頭に残ってはいなかったが、二人一緒に、
「あまりおもしろくないね」と感じたのははっきりと覚えている。

そんなことを不意に思い出した矢先、本当に本当になぜかはわからないけど、
急に、親のことを許してあげたい気持ちがぶわっと湧いてきた。
それは、親の持ってきた好意(私を喜ばせたい)という気持ちがあって、
でもうまくいかなくて...残念な映画を見た気持ちをお互いが共有した思い出が
何故かその気持ちを呼び起こした。

その瞬間の気持ちは、泣きながら喜んで走り出したいような、
でもやっぱり泣いているから悲しいような...悲喜交交とは少し違うけれど、
色んな気持ちがごちゃまぜになったような気持ちだった。
嬉しいような寂しいような、何故か涙が出てきてしまう夜だった。

一昨日の考察の続き

自分の中には怒りが眠っている
→それは、親に大事にされたり、尊重されなかった痛みであったり、辛さが根っこにある

その怒りをどうにかして発散したい
→母の怒り方を真似る→父をダメ扱いして、父を怒って発散する
 →だめな人、依存的な人と仲良くなり、管理する
  →そして、自分を大事にしてくれないことに怒りを募らせる
   →限界が来た時に、怒る、そして発散する、そしてそれを繰り返す

不合理な怒りのシステムだけど、怒るために自分を傷つけていると考えると
スッと腑に落ちてしまった

これから必要なこと
自分の中に怒りがあることを意識し、それをどうにかして発散する
そして、怒りに基づかない人間関係を作る

そのためにどうすればいいか
自分が怒ることを許す、怒りの感情を否定しては意味がない
自分が育った環境やされたことは、怒りを感じてよい環境だったと自認する
どういった時に怒りを感じるか、また、その怒りの下にはどんな気持ちがあるのか、
それを認識する(怒りは二次感情にすぎない、一次感情を捉えて、それを癒やす必要有り)
怒りを発散する方法を考える
 →トラウマティックな怒りをどう発散するか
  →時には羽目を外してもいい、寧ろ羽目を外すべき
今と同じ思考変われないので、変えるところは変える
 →自分を変えても、世界にはさほど影響は及ばない、気にしすぎない

理由

自分が、自分を大事にしてくれない人と仲良くなって
その人の悩みを一緒になって解決するという阿呆なことをするのは
何故だろうか?ということに答えが出た

自分は、優しさという体で、自分を大事にしてくれない人に復讐したい。
自分はあなたを救ったよ、だからあなたも私を大事にしてよね?という
脅迫と、それが出来なかった時に相手を怒れることを期待しているのだと思う
相手を大事にするためのモチベーションは怒りなのだ

その怒りの下には、自分の気持ちを聞いてもらえなかった悲しさだったり
辛さだったりが眠っている
その悲しさ、辛さが満たされなくて、怒ることも許されなくて
その中で、怒りを優しさとして表現することで、相手を追い詰めようとする
そんなストレス解消?適応?方法が生まれたのだと思う

加藤諦三の本だったか何かに、異様に優しい人は本当は怒っている
そんな記述を見た気がするけど、多分それと全く同じだと思うし
ほんとはぜんっっっっっっぜん優しくないんだと思う
むしろ、めちゃくちゃ酷い人間だと思うし、それを認めたくなくて
優しい自分を演じているのだろう

誰もここのことを知らないと思うとやっぱりここは消せない

友達とか昔の恋人に対してわーわーなってた気持ちは
もうだいぶ鎮火しつつある

距離が離れても何かしてあげたかったり、どうにかしたかったり
そういう気持ちが強かったんだけれども、自分が出来ることは
声をかけずにただ黙っていることなんじゃないか、
そう思えたら、どんどん気持ちの火が小さくなっていった

声かけなくても、何かしてあげなくても
相手にとって何の不足も無いのなら、もうずっと
黙っていてもいいんだと思えたし、
距離が離れるならばもうそれも放置しておけばいい、
寧ろなんで最初からそれをしなかったんだろうなと
そう思うくらいになった

私にとってここは鎮魂の場なのかもしれない

あまり覗きにこないここだけど、

それでもこの場所を消せないのは、リアルの自分を知っている人がいないからだ

恋人と別れて以前よりTwitterにのめりこむようになったりしたけど
やればやるほど疲れていくのが自覚出来たし、
そこまで人との付き合いに拘泥しなくてもいい
(その代わりに、TwitterつながりでSkype出来る人が出来た)
そんな風に思うようになっている。

結婚とか恋人とかも一時凄い欲しくなった(要は寂しかった)
時期があったけど、今はもう半ば諦めというかこだわりがなくなって
恋人が出来るとか結婚するって、車で衝突されるような
偶発的な出来事(確立を上げることは出来ても)だよなと思い
最悪犬でも飼って好き勝手暮らしてもいいかな、と思っていたりする。
(実家はローンも返し終わっているし、周りは畠が多くて
 そこで果樹でも育てる余生を過ごしてもいいかなと思うし)
友達と同じように、恋人も作るものというよりは
いつのまにか-出来ているものだと考えるようになった。